はじめまして。
「魂の目覚めカウンセラー」の三浦さとこです。
数あるサイトの中からご訪問くださりありがとうございます。

私の人生があなたのお役に立てるかもしれません。
少し長くなりますが、少しお付き合いくださいませ。
気楽に、目次の気になるところからご覧になってください。
「泣かない子」「笑わない子」「ピエロ」の仮面をかぶった幼少期
私は、地方の古くから代々続く家、四世代同居、公務員の両親という、
厳格な家庭で育ちました。
母の口癖は、「目立ってはいけない」でしたので、
いつも世間の目を意識する癖は幼いころから育っていたようです。
そのためか、元々の性質なのか、
幼稚園の頃から自分を抑える子どもだったようです。
ある日、帰りの幼稚園バスを待って遊んでいた時、
ジャングルジムから落ちて口の中をかなり切ってしまいました。
「口を開くと血がこぼれてしまう。
迎えに来てくれる祖母を悲しませてはいけない。」
そう思い、必死で口を結んでいたことを覚えています。
周囲からは「泣かない子」「笑わない子」と言われていたようですが、
そのことを聞いた家族は、
「さとこはこんなに明るくて、我が家の太陽なのにね~」
と、よく言っていました。
今思うと、幼いながらに必死で家族を明るくするために、
ピエロを演じていたのだと思います。
というのも、年の離れた兄の不登校や家庭内暴力が始まり、
家の中の空気は重く、不安と恐怖に満ちていたからです。

いじめっ子に向かっていく小学生期
元々病弱で体も小さく、痩せっぽちでした。
本を読むのが好きで、家の中には山ほど本があり、何でも読んでいました。
特に、大人向けの人生相談の本が好きで、
「自分だったらどんなアドバイスをするだろう?」
と考えながら読んでいる子どもでした。
学校では、いじめられている男の子を見ると、
ほうきを持っていじめっ子を追いかけるような正義感の強い子でした。
しかし同時に、いじめっ子の心の悲しみも感じ取ってしまい、
そのことで悩むこともありました。
家族からつけられたあだ名は「人権擁護委員」。
(祖父が人権擁護委員でした)
祖父のように、いつも周りの人を助けていたからだったようです。
人を助けることは、自分にとっては当たり前のことでした。

救われたいのは自分自身だった中学生期
中学に入ると、当時は校内暴力が盛んな時代でした。
小学校では朗らかで明るかった友達が、
急に髪を染めたり剃り込みを入れたりと、不良になっていきました。
感覚が鋭敏だった私は、
彼らの悲しみや怒りを敏感に感じ取ってしまいます。
それが理由なのか、毎日のように不良の子たちから家に電話がかかってきました。
「声が聞きたい」と言ってくるのです。
学校は荒れ、お酒の瓶を持ってくる子や、
放課後にシンナーを吸う子もいました。
私は、その子たちの本当の優しさや辛さを感じていたので、
先生や親に認められる方向へ導こうと、
お酒を取り上げたり、勉強を教えたりしていました。
そして今思えば、
救われたかったのは私自身だったのだと思います。
家の中では兄の暴力が続き、家族は疲弊しきっていました。
私の体も、頭痛、関節痛、不整脈と悲鳴を上げていました。
そんな高校入試直前、私はリンチを受けました。
「もう人に関わるのはやめよう」
深く傷ついた私は、心のシャッターを下ろしました。

何のために生まれて来たのか?苦悩する高校・大学時代
高校に入った私は人と深くかかわることをやめ、
勉強に専念しようと思いました。
しかし当時の私は、学校に行くだけで疲れてしまい
帰宅後は眠るだけという生活でした。
学校にも家にも、休まる場所がない。
体もつらい。
「何のために生まれて来たのだろう?」
心理学、哲学書や自己啓発本などを読みあさり
本に救いを求めました。
大学生になり上京し、一人暮らしが始まると、
もともとの敏感さもあり、体に様々な不調が現れました。
中学の頃から続く、関節痛、頭痛に加えて、
肌はボロボロ、鼻やのどの痛み、胃の痛み…
心は本に救いを求め
体は病院に救いを求めました
しかし病院に行っても原因は分からず
薬はその場しのぎでした。
そんな時に自然な生活を勧める本に出会います。
石鹸シャンプー、お酢のリンス、米ぬかで体を洗うこと。
自然療法での手当や
無添加、無農薬の玄米菜食など
体に優しいといわれる生活をこころがけるうちに
次第に肌も回復し、体も楽になっていきました。
10代後半。
ここが、私の自然療法士としての原点でした。

体も心も血の通わないロボット人間の社会人時代
薬剤師の資格を取り社会人となった私は、
自然な生活を取り入れようとしながらも、
仕事から帰ると夕食を作る元気もなく、
コンビニ弁当で済ませる日々を送っていました。
自分の感覚が人より鋭敏だということを無視して、
「体が弱い自分」を否定し、周りの基準に合わせようと必死でした。
中学生の頃からあった関節の痛みは次第に広がり、
仕事帰りには手も足も痛みで動かなくなっていました。
心の声も体の声も無視し続け
効率だけを考え、ロボットのように仕事をこなす日々…
そしてついに、医師から「自己免疫性疾患」と告げられます。

どうやって生きたらいいか分からなくなる結婚生活
病気がちの私でしたが、20代半ば、縁あって現在の夫と結婚しました。
結婚式の日、親戚のおばさんが父にこう言いました。
「さとちゃんはね、昔、世界で私が一番不幸だって言ってたのよ!」
晴れの日に…と思いましたが、
きっと「幸せになってよかったね」と伝えたかったのでしょう。
そんなことを言った記憶はないのですが…
幼いころから、兄の家庭内暴力で苦しむ家族を見続け
そして苦しむ家族を助けることもできない無力な自分
その自分を責め続けて、
なんて自分はみじめなんだ!
なんて自分は不幸なんだ!
心の中でずっと叫んでいたのだと思います。
世間的には結婚もして、
「これで十分、うまくいっている人生」と思っていました。
それでも、
「これからどうやって生きたらいいのか?」
と再び新たな壁にぶつかります。
育ってきた環境の違う他人と暮らすことは、
私にとってとても疲れることでした。
そんな私に世間は、
「お子さんはまだ?」という言葉を投げかけてきました。

本当の苦難はこれから!子育て時代
結婚がゴールだと、どこかで思っていた私。
子どもを持つことを真剣に考えていませんでしたが、
親や世間の期待に応えたいという思いもありました。
しかし、子どもは授かりものです。
「私の体では無理なのかもしれない」
そう思いながらも、自然食の料理教室に通い、
さまざまな健康法を実践しました。
料理教室では食事を作ることだけでなく
「何のために生きるか?」
「どう生きるのか?」
という、私が幼いころから問い続けている
魂の探求について教えてくれました。
「見えなくてもあるんだよ」
「お天道様は見ているよ」
と、自然の力や心の在り方について
多くのことを学びました。
このことは、私の「魂の探求」の原点になっています。
そして結婚6年目、待望の赤ちゃんを授かります。
「この子のためなら何でもできる」
そう思えるほど、心は希望に満ちていました。
しかし、ここから本当の困難が始まります。
長男は非常に敏感な子で、
体から離れると激しく泣き続けました。
私は育児ノイローゼのような状態に。
夫は仕事で帰宅は深夜。
ワンオペ育児が始まり
心の中は、孤独と不安の中で張り裂けそうでした。
そんな中、二人目を妊娠。
双子であり、さらに重い病気があることが分かります。
二人とも無事に生きられる可能性は30%。
長男と離れ、管理入院となり、
双子は3か月早く生まれました。
集中治療室での生活、
退院後も何度も生死をさまよう日々。
さらに退院後、長男に対して
「自閉症の可能性がある」と告げられます。
「どうして?私のせい?」
やっぱり私は、
ずっと苦難の中で生きる運命なのだ!と
人生を呪いたくなりました。
時を同じくして、
私の父が末期がんを宣告され
父の看病と母の心のケアも必要でした。
次々と押し寄せる現実に、
心は崩壊寸前でした。
それでも夫は仕事中心。
長男の障害についても
「そんなはずはない」と、受け入れられないようでした。
私はすべてを一人で抱え込みました。

モラハラ夫とかごの中の鳥の私
体力のない私にとって、3人の子育ては過酷でした。
それでも子どもの健康を願い、
薬に頼るだけではなく、自然療法や整体などで体を整えていきました。
その結果、子どもたちは次第に元気になり、
自閉症と言われた長男も、問題なくコミュニケーションが取れるようになりました。
しかし一方で、
夫に対する思いは、氷のように冷たく心が固まっていました。
専業主婦となり、社会から切り離されたような感覚。
収入がないことで、
「養ってもらっている」
「意見を言ってはいけない」
という思い込みが強くなっていきました。
もともと感情を抑えることに慣れていた私は、
自分の気持ちすら分からなくなっていました。
末期がんの父を見送り、
ほどなくして母が認知症になりました。
変わっていく母の姿に悩み、
娘として親の為にできる限りのことをしなければと必死でした。
そして夜も眠れなくなる日が続きました。
次第に私の心も壊れていったのでしょう
朝、床に座ったまま、
気づくと夕方になっているということもありました。
私はもう限界‼
心も体も泣いて叫んでいたと思うのですが
顔は無表情
心はどんどん無感覚になっていきました。
当然、夫に伝えることもできません。
「察してほしい」
そう思っていたため、言葉にするという発想すらありませんでした。
夫はどんどん不機嫌になっていきました。
そして私は夫が帰ってくるドアの音にも、全身が緊張する日々。
「私はかごの中の鳥だ」
「子どもが成長するまでは何とか生きよう」
「子どもの手が離れたら、もう私は人生を終わりにしよう」
そんなふうに、人生に絶望していました。

希望の光が見えたカウンセリング
認知症の母も見送り、
子どもが成長してきた頃、
「このままではいけない」と思い、カウンセリングを受けました。
そこで初めて、自分がどれほど
感情や体の声を無視してきたかに気づかされます。
少しずつ「自分を大切にすること」を実践していく中で、
押し殺していた自分の気持ちに気づけるようになり、
自分の気持ちを表現できるようになっていきました。
ある日、勇気を出して夫に自分のやりたいことを伝えました。
「どうせ否定される」
「この人は私の全てを否定するのだから」
今までの私は夫のことをそんな風に思っていました。
でも、自分の気持ちを大切にしているうちに
自分に対しての信頼がでてきたのか
心を開いて話してみようという気になったのです。
すると、返ってきた言葉は
「いいんじゃない?」でした。
世界がひっくり返るような感覚でした。
「どうせ分かってもらえない」
そう思っていたのは、自分で作り上げた世界だったのです。
それから少しずつ、自分の思いを伝えることを続けていきました。
同じ現実でも、
どんなフィルターで見るかで世界は変わる。
私が作り上げた
モラハラ夫は、私の見方が変わることで
家族思いの父親になっていきました。
そして今、
夫の何気ない行動も、
「優しさ」として見えるようになりました。
あの時、カウンセリングを受けていなかったら
私は今も人生に絶望して
かごの中の鳥だと
自分のことを思っていたでしょう。
一人で抱え込まず、
人に助けを求めることが
どんなに大切かを
今になって身にしみて感じています。

今、「わたしが主役」の人生を生きる
幼いころから、自分を抑えることが当たり前で、
自分の感情すら分からなくなっていた私。
カウンセリングを通して、
「人生の主役は自分自身である」ということを学びました。
まずは、自分の感情に気づくこと。
そして、それをジャッジせずに受け止めること。
自分を大切にすることは、
最初はとても難しく、罪悪感すらありました。
自分を優先するなんて
わがままなのではないかと
随分抵抗がありました。
それでも、小さな感情を一つひとつ大切にして感じ取るようにし、
受け入れるようにしていきました。
そうするうちに、
これまで家族が最優先
夕方までには家に帰って夕食を作って…
などと、「こうあるべき」に縛られて
いつも自分を後回しにしていた私も、
今では自分を最優先!
自分の行きたい場所へ
自由に出かけられるようになりました。
ある日、長男に聞かれました。
「母さん、今、幸せ?」
私は迷わず答えました。
「幸せだよ。だって、好きなことをやっているから。」
長男は「よかった」と一言。
子どもは子どもなりに私のことを心配していたのでしょう。
親が幸せで笑っていることが、子どもにとって幸せなのだと気づかされました。
それは夫にとっても同じなのだと思います。
自分を大切にすることは、
わがままではありません。
自分が本来の自分にかえって
自分らしく生きることで
自分が幸せになり、
その幸せが
水の波紋のように
周りを幸せにしていくのです。
私の人生は決して順風満帆ではありません。
それでも、この経験があるからこそ、
誰かの力になれると思っています。
かつての私のように、
「娘として」「妻として」「母として」
誰かのために生きてきた方へ。
これからは
自分のための人生を創り出していきませんか?
そのお手伝いができたら、これ以上の喜びはありません。


